雨の日曜日

宛先もわからないまま

ブランクノート・プリズム

音楽がすきだ、と言葉にすることに、抵抗があった。

小学一年生から五年生まで続けたピアノは、そもそもが友だちにしつこく「一緒に通ってくれなくちゃ嫌だ」と泣かれてうんざりして始めたものだったし(泣きたいのは完全にわたしの方だった)、先生ともそりが合わず、教本や知りもしない曲をなぞる週一回の時間は幼いわたしにとって苦痛でしかなかった。家でピアノの練習をしていても、ほとんどが当時のCMや人気だった曲の音当て遊びに時間が費やされ、当然ろくに練習をしてこないわたしを、先生は怒る。その繰り返しにやる気は低下する一方だったが、家族からしてみれば自分から言い出した習い事だったので、辞めさせてももらえなかった。ピアノ自体は嫌いじゃなかったのに、残念なことに当時のわたしはそのことにすら気付けず、ひたすら辞めたいと思いながら五年間を過ごした。

 歌うことはすきだけれど、音程は合っちゃくれない。カラオケなんて社会人になって先輩や上司に半強制的に連れていかれるまで友人と行くのも極力避けていたし、人前で歌うことの何が楽しいんだろうと思っていた。これも中学時代、一度だけ行ったカラオケで音程が違うと笑われたトラウマのせいだ。カラオケ、全然おもしろくない。お風呂で歌っているだけで十分だ、長らくそう思い続けていた。

 こんな経験をしてしまったからなのか、自分が音楽をすきだと気付くのも遅かったし、気付いたときには無意味にコンプレックスを抱えてしまっていた。ピアノは挫折、音程も合わない。自分なんかが音楽をすきだなんて口に出すのはおこがましく、何よりも恥ずかしい気がしていた。

 けれど今は思う。無理やり弾かされるピアノが嫌いでも、音を外して歌ってしまっても、別にいいじゃないか。すきと得意がイコールであるなら、そんなに幸せなことはないと思う。だけど、それは決してすきでいることの条件じゃない。そんな簡単なことに気付くのに、ずいぶん時間がかかってしまった。

 今はカラオケも克服してむしろすきになれたし、ひとりで行くことだってある。大勢で歌うブルーハーツやモンパチ、ロックもバラードも関係なくひとりですきな曲を満足するまで歌い続ける、その楽しさも知った。楽器に触れる機会はほとんどなくなってしまったけれど、もう一度ピアノを習いたいな、と考えることもある。

 そもそも、「音楽がすき」という言葉の意味は広いのだよな、と思う。演奏するのがすき、歌うのがすき、ライブがすき、ミュージカルがすき、音楽理論がすき。たくさんの関わり方や、すきの形がある。現に中学以来わたしはもっぱら聴く専門になっていたけれど、それだけでも大満足だった。頭の中にすきな曲やメロディがありさえすればよく、友人とその気持ちを共有する必要さえ感じていなかった。自分のすきを他人にとやかく言われることを、無意識に怖がっていたのだと思う。自分だけのすきを詰め込んだiPodは、秘密の宝箱に思えた。

 すきなアーティストができた。初めて曲を聴いた瞬間から、長年の音楽に対する劣等感、コンプレックスなんて簡単に吹き飛ばすほどの「すき」が溢れた。ライブに行きたがったり、アーティスト本人たちのことを知りたくなったり、ファン同士SNSでやりとりをしている今のわたしを、過去の自分が知ったらさぞ驚くことだろうと思う。これまで聴くだけだったわたしの音楽との関わり方を、彼らが二次元から三次元に引き上げてくれた。

 実在している人間が、わたしという人間と音楽を通して関わっている実感。平面が立体になり、より多角的に彼らを、彼らの音楽を知りたいと気持ちが動く。知らないままでいた「聴く」以外の音楽の楽しみ方を知って、わたしの世界は広く遠く、深くなる。

 音楽的なことがわからず、もどかしい気持ちになることもある。きっと、アレンジや曲の構成、音の運び、演奏のテクニックなどがわかれば、さらに世界は広がりを増すのだと思う。それができないわたしは、ただすきというシンプルな感情を分解し、言葉を探す。それでも結局、「すきだ」と声を大きくするくらいしか、溢れ出るこの感情を表現する方法は見つからない。だけど、それでいい。

 わたしは、音楽がだいすきだ。