雨の日曜日

宛先もわからないまま

十年後、君と待ち合わせて

 ドラマなんて起こらない私たちの日常には、それでも歌が必要だ。

 誰に気付かれるでもなく、だけど毎日、戦っている。そうして日々を繋いでいくことが何よりも尊くて、大切で、愛しい時間だということを、普段感じることは少なくても、私たちはちゃんとわかっていなくてはいけない。変わっていくことも変わらないことも多い日々の中で、誰かと一緒に年をとっていくことの美しさ。これはきっと奇跡の連続が成し得ることで、決してあたりまえなんかじゃない。生きていくこと、死んでいくこと、その大きな流れの中にいるちっぽけな、だけど毎日を懸命に生きている私たち。そんな私たちに彼らはスポットライトを当て、主役にしてくれる。誰かに向けた歌じゃない。君の、あなたの。そして、私のための歌。

 

 生きていく中で、個体をよりよい状態に保つために引き起こされる細胞死のことを、アポトーシスと呼ぶらしい。由来はギリシャ語、「花びらが花から落ちる」「葉が木から落ちる」といった意味を持つapotosisから来ているそうだ。細胞死を重ねていく中で、見えない、けれど研ぎ澄まされていく美しさがある。

 生きるということは、常に死に近付いていくことと同じだ。それは誰もが平等に与えられている結末で、遠ざかることなんて出来ない。だけど、どうだろう。結末に向かう間に、誰かひとりでも、隣で一緒に歩んでくれるひとがいたなら。段々と”古びれて“いくお互いの変化さえも、愛せたら。

 

 生きることを歌った曲というよりも、死までの時間を描いているように聴こえた。いつかくる死への怖れ、別れの寂しさ。終わりに近づいていくことを嘆きながらも、曲中では積み重ねた時間の中で拾ってきた、幸せの輪郭がなぞられていく。“ロウソクの増えたケーキ”も、“校舎も駅”も、そして夜中の”リビング“でさえも、他愛のない日常の風景の中にこそ、これまで積み重ねてきた幸せは散らばっている。年を重ねることを“素敵”だと言い切ってくれる4人が、限られた時間の中で、何をするのかと問う。きっと、歌詞の中のたった一文。ただその一文を伝えるための曲。

 

 彼の紡ぐ言葉に触れると、いつも心に氷柱が浮かぶ。滴る水が少しずつ凍って氷柱を太く長くしていくように、言葉が段々と、それでいて確実に研ぎ澄まされていく様子を、幸運にも同世代を生きる私たちは見つめることができる。言葉の結晶たちの透明度はより高く、切っ先はより鋭くなっていく。

 温度のある彼の言葉に対して、冷たい氷柱のイメージを合わせることは表現として誤っているのかもしれない。それでも、人の手で触れてはいけないような危うさと、美しさを同時に感じてしまう。時に言葉は人を殺してしまうこともあると理解しているからこそ、選んで選んで選び抜く繊細な作業の工程に、絶対に嘘も手抜きもないことがわかる。そうして、研ぎ澄まされていく。

 

 選ぶことは捨てること、生み出すことは殺すことと、きっと同じだ。文章を書くときは、常にそう思っています。言葉を選び取ることで、その周辺の感情はてのひらから零れ落ちていく。言葉にすることで死んでしまう何かは確実にあるし、本当は零れてしまうその“何か”の方が伝えたいことだったと気付くこともある。本当は声にする一歩手前、その一瞬だけが本物なんじゃないか、言葉って。不器用な私たちは、いつも言葉に追いつかない。

 だけど4人は、言葉で、音で、すべてを届けようとしてくれる。そして私たち誰一人欠かすことなく、約束を結び、守り続けてくれる。“目標は続けていくこと”。その難しさも大事さも、そして、愛しさも。きっとわかっていて小指を差し出してくれるから、信じたくなる。

 

 十年後、きっと変わらずに、また新しい約束を結ばせて。それまでの間、私は私の大切な人を”ひとときだって愛しそびれないように”、日々を重ねていくよ。