雨の日曜日

宛先もわからないまま

小さな神様と三度目の春

近所の神社で河津桜が咲いている。
いつの間にか春が近づいて、時間が経ったのだなあと思い知る。
あの頃、いつか絶対に叶えてやると思った夢を、まだ、見続けている。

駅までの道にひっそりと佇むその神社は、入り口に二本、鳥居を挟むように木が立っている。
この木が桜だということに気付いたのは、この街に住みはじめてすぐの春だった。
普段であれば参拝客もほどほどの小さな街中の神社が、春が近づくこの季節だけ、いつもと違う顔を見せる。
まだ少し早い春の訪れを喜ぶ多くの参拝客が訪れて、入り口の横に人力車が停まり、小さな境内からは人があふれ出る。
観光スポットとして案内されるようになるのだ。
皆同じようにスマホを空に向かってかざしている様子は、なんだかなあと思わないでもないが、液晶画面から普段見るのは暗いニュースばかりだから、空を見上げる機会を春がくれたと思えば、私の街の小さな神様に感謝したいような気持ちになった。

 

この街で二年、つらいことの方が多かった。
幸せの象徴であるはずの1LDKの中で、いつも私は独りだったし、そのことに慣れていく自分に毎日小さく絶望をしていた。
おしゃれでもなんでもない、収容力だけを重視して買った本棚だけが、私の味方だった。
毎日保健室のソファで寝そべって本を読みふけっていた十歳の私は、二十年経っても同じような日々を繰り返していて、あの頃とは確かに違うのに、わかっているのに、悔しくて無性に泣きたくなる夜が何度もあった。
結婚が幸せとされている世間で、身の回りでもそういったニュースが続く年齢を迎えている私は、幸せじゃないなんて、口にできなかった。
生き方なんて人の数だけあるはずなのに、そう信じているのに、そうとは言えない自分が情けなくて、気持ちが沈んだ。


私の感情は私だけのもので、誰に大切にされなくたって、私自身に価値がないわけではないのだと思えたのは、ずいぶん前に買った一冊の本を読み直した時だった。
久々に読んだその本の、たった一文に心が震えて、その頃毎日のように流していたものとは違う涙がこぼれた。
私は、この感動が、心の震えが忘れられなくてこの道に進んだのではなかったか。
いつも変わらない一番星は、常に私の心で眩しい光を湛えていたはずなのに、どうして見失ってしまっていたんだろう。
誰のためでもない私自身の人生で、これほどまでやりたいことに出会えたのに、どうして足踏みをしているのか。
一番星がどんなに美しくても、見上げなければわからない。
部屋の中で膝を抱えていたって、なりたい自分になんか、近づけやしない。
自分を貶める存在に心を割いている時間なんて、ないはずだった。


年が明けてすぐ、異動が決まった。
希望を出して、半年ほどで本当にタイミングよく機会がもらえることになった。
あまり前例のない配置換えだから、自分を含めて社内は当然慌ただしくなったし、もともとの忙しさに輪をかけて負担を増やしてしまった人もいる。
異動後だって丸きり初めての仕事で、この年で新入社員のような振る舞いをしている自分がほんの少しだけ恥ずかしくもあるけれど、言葉と向き合う毎日は本当に楽しい。
この二年、何を我慢していたんだろうとも思えたし、反対に、決断するためには必要な時間で、自分にとっては最短だったんだとも思えた。

 

以前の住居からは引っ越したけれど、私はいまもこの街に住み続けていて、今年で三度目の桜の季節を迎える。
初めて入った神社の境内の奥にはミモザの木が植わっていて、見事に花を咲かせていた。
夢の入り口にやっと立てた私が、この先もずっとこの場所に留まっていられるかはまだわからない。
自分次第でもあるし、きっと向き不向きもある。
十年抱えてしまった気持ちだから、うまく行かなかったことを考えると不安にもなるけれど、それでも、一歩を踏み出せた今の自分は、嫌いじゃない。
見たことのない景色が見たいとも思うし、見せたいとも思う。

この街でまた、桜の季節を迎えよう。
日々を重ねながら、ほんの少しずつでもなりたい自分に近づいていけばいい。
部屋の本棚にひっそりと佇むこの一冊一冊が、きっと北極星のように私を導いてくれる。