雨の日曜日

宛先もわからないまま

いつかクジラの背にのって

がんばって、と言うことは、たとえそれが本心だとしても、何よりも大切なきみを追い詰めてしまうことに、ならないだろうか。

世の中は自粛ムードで、それが大切なひとを守ることに繋がるって、とてもよくわかる。頭ではわかっている、つもり。だけどその一方で、別の大切なものや、場所や、ひとが、少しずつ崩れて、音もなくすり減っていっているだろうということも、感じている。

大切だとか、すき、だとかそういった感情は、常にエゴの一つでもあると思っています。すきです、わたしもすきです、といった意思の疎通が成立していたとしても、ひとの感情なんて、結局はいつも一方向だ。その思いが強ければ強いほど、対象が自分をどう思っているか、その意味合いは薄まっていく矛盾。だって、大切にしかできないから大切で、嫌いになんてなれないから、すきなのだ。そう居続けるしかない、という状態を受けて入れているのは、まず間違いなく個人的な問題だと、思う。

地方のライブハウスや、個人経営の書店、駆け出しのアーティスト。わたしの想像力では足りないくらい大勢のひとたちが、大変な思いをしているのだと思う。そんなときに、なくならないで欲しい、続けていて欲しい、がんばって、なんて、押しつけなんじゃないかって、思ってしまう。わたしの、心からの願いであることは間違いないし、そう言葉にすることを悪だとは決して思わないけれど。

「すき」の強度は減らない。こんなときだから、自分のなかの大切なもの、すきなものを、深い深いところで、いつもより少しだけ強く思う。何もできないちっぽけなわたしだけれど、いつかまた、穏やかな日々に戻ったとき。そのときも変わらず居続けてくれたら。大きく大きく息を吸って、どんなに遠くても届くように、すきと歌おう。

本当はいつだって自由で、どこにだっていける。「すき」は、強い。何にも、だれにも壊せないものだからこそ、いまは、その強度を信じることしかできない。

広く、深く。そしていつか、願いにも祈りにも似たこの歌声が、遠くのきみに届くまで。