雨の日曜日

宛先もわからないまま

恋人という言葉の孤独感について

恋愛関係にある相手のことを第三者に伝える場合、おそらく大多数のひとは「彼氏」、または「彼女」という言葉を使う。「恋人」という表現を選ぶのは、おそらく少数派だろう。

言葉のニュアンスとして、彼氏、彼女には友だちの延長のような気軽さがあるのに対して、恋人という言葉に含まれるこの孤独感はなんなのだろう。二人きりで逃げ場のない、身動きのとれない息苦しさのような、寂しさのような空気が纏う。

もう会うことはない、けれど忘れられない友人がいる。部活や勉強、友人関係、好きな曲。本当にたくさんの話をした。あの頃わたしたちは学生で、思春期真っただ中と言って差し支えない年頃だった。その時期盛り上がる話題といえばやはり俗にいう「恋バナ」で、今思えばよくもまあ飽きもせず同じような話をあれだけ繰り返せたものだと思うが、とにかくあの頃、恋バナはわたしたちが持つ話題の中で大きな割合を占めていた。友人は自分のことを積極的に話すタイプではなかったが、ふたりのときにはよく好きな先輩のことを教えてくれた。先輩のことを話すとき、友人はまるで大事な宝物をわけるかのように穏やかで、優しい話し方をした。わたしはその声を聞いているのが好きだった。

みんなの恋バナに、にこにこと楽しそうに笑って相槌を打っていた友人は、本当は何を思っていたのか。男性に彼女がいることが、女性に彼氏がいることが大前提の輪の中で、果たしてわたしは、わたしたちは、無意識に選んだ言葉で傷つけたことはなかったか。

卒業以来、その友人には会っていない。連絡先も知らないままになってしまった。けれどあの時からずっと、考えている。せめて、せめて言葉だけでも、寄り添うことはできなかったか。

恋愛は、一対一で相手を見つめ合う以外、逃げ場のないものなのだと思う。そこには気持ちの軽いも重いもなく、ただただ真っ直ぐに自分を見つめ返す相手がいる。だから、恋愛関係にある相手を差す言葉が孤独の空気を纏うのは、ある種当たり前のことなのかもしれない。二人の間には第三者の介在の余地などない。彼氏、彼女という一方的な言葉では表現として圧倒的に不足してしまう、ただお互いのみが存在する空間がある。そこに二人きりで存在する、存在し続ける覚悟。もしくは、諦め。そんな孤独を前に、性差や社会的立場、もしかすると人間同士であるかでさえも、問題にはなりえない。

二人だからこそ、より一層孤独感は強くなる。孤独を抱えたまま、すべての恋人たちは、歩いていけるだろうか。