雨の日曜日

宛先もわからないまま

ふふ麩のはなし

和食って、きれいだ。

ふんわり卵のオムライス、肉汁溢れるハンバーグ、も、もちろんいいし大好きだけれど、和食のこの主張しすぎないお上品な感じ、かつ、見た目が華やかな洋食にだって負けませんよ、という凛とした雰囲気。わあ~、いただきます!と飛びつくというよりは、さて、頂きましょうか。おいしく、きれいに。と、こちらも食事マナーにのっとって向かい合いたくなる。自然と背筋が伸びるような。

これは完全にイメージの問題だけれど、和食には調和の美があると思う。出汁の味だったり、食材のバランスだったり、お料理の並びだったり。やさいを育てる農家のひとや、漁師のひと、板前さん、お料理に関わるひとはもっともっとたくさんいるのだろうけれど、思いつく限りのひとに思いを馳せてしまう。みなさん、こんなにきれいでおいしい料理をつくってくれて、ありがとう。目にもおいしい、すてきな食事の時間を、ありがとう。果ては大地や太陽といった自然の恵みから、生まれてきてよかった!なんて生命への感謝にまで思考が到達することまである。そして一口食べて、いかんいかん、つい大げさになってしまった。と、やっと目の前の料理に意識が戻ってくる。とにかく、きれいで、おいしくて、だいすき。和食。

本題。お麩、生麩のはなしをします。みなさん、生麩って、いつ食べますか?我が家ではお雑煮(お雑煮も地域によって全然違うので話はつきないのですが、長くなるのでまた今度。ちなみに我が家は関東のお澄まし雑煮です。)と、たまーに茶碗蒸しに入っているくらい。多分これ、お正月の残りを冷凍しておいたやつ。お雑煮はお正月だけだし、生麩入りの茶碗蒸しだってそんなに頻繁に食卓に並ぶものではないから、生麩はかなりのレアキャラといえる。なんせ生麩。きみ、お高いですし。だから、京都旅行にいって当たり前に生麩がメニューに並んでいたり、外食で思いがけず出会うと、なんだかとても嬉しくなってしまうし、特別感がすごい。こんなところで会えるとは!わたしはいま、こんなに当たり前に生麩を食べているぞ!いったい誰に語り掛けているのか、だけど主張したくなる。京都旅行のときなんて、生麩を食べるぞ、と意気込んでしまうことすらある。生麩!きみは素敵だ!

花麩みたいにかわいいものもあるけれど、大半が地味な見た目なのに、なんでこんなに華やかな気持ちになるんだろう、麩。もちっとして、だけどしつこくない。なんていい女なんだ、麩。やさしくてかわいい憧れの先輩みたい。いつもは見ているだけだけど、たまに挨拶ができると、嬉しくなる感じ。気持ちがスキップし始める。ふふっ、ふふふ。ふ、ふ、麩。

生麩をつくるひと、生麩の材料をつくるひと、調理するひと、それから食べるひと!みんながこんなスキップしたくなるような気持ちで、目の前のお料理に向き合っているといい。だいすきな生麩。いつまでも変わらない、憧れの和食。